村上春樹氏の作品は、大学時代の友人の影響で、よく読んだ。紹介してくれた彼は、早くに母を亡くし、父と二人で育ってきた誠実な男だった。特に刺激のない田舎から京都の大学に来た私にとって、彼が保有している膨大なCD(当時はCDですよ)を、彼の最高のチョイスで貸してもらえたことは、私の人生をかなり豊かにしてくれた。

蛍から繋がる「ノルウェイの森」にて、村上氏は「死は生の対局にあるものではなく、私たちは生きながら死を育んている」的なことをいっていた。このことがかなり印象に残って今に至る。そうか、私たちは死を内在して生きているのだ。私たちの共有言語は死なのだな。と。これは別に悲観的な考えではなく、そういったものだと理解していると、なんとなく生きやすかったし、いろいろ消えていく周りに対しても、常に素直に接することができた。

が、しかし、「神の子どもたちはみな踊る」という短編にある「タイランド」という作品に

生きることと、死ぬることは、ある意味では対価なのです。

との言葉がでてきた。

この言葉に、実は昨日出会った。この短編集は、単行本で発売された10年以上前に購入し、文庫化された時も購入し、家の書棚にあるが一切開いていなかった。にもかかわらず、コロナ禍において「スペシャルセール」を実施している神田の古本屋に何気なく入ったときに、100円で購入したのだ。

そして、家に帰って、朝起きて、家族がまだ寝ている時に始めて読んでみて、この一説に出会った。

ほお。死と生は等価なのか。

この短編集は阪神大震災を受けて、村上春樹が描いた作品集だ。

これは、なんとなく彼が行きついた思いなんじゃないかなと感じた。ある意味ではとあるので、全てではないにせよ、彼はそのように感じたのだろう。

自分たちが自然(ガイヤとかテラとか)の一部なんだと痛感した時に悟ったのではないだろうか?

で、私は何を感じたのか?

言葉を選ぶが、今の世の中は、生を最上地におき、全てマネジメントしている。いずれ死ぬる我々は、一秒でも生でありたいと願うことを前提として。いろんな仲間が、生を削って、生のために生きている。

私は、死を大切にして、生をしているだろうか?

死ぬることに感謝して、生を全うしているだろうか?

このマスクは、生に対する尊厳と感謝の象徴でないといけないのではないだろうか?



と、考えていたら、歌舞伎「風の谷のナウシカ」がテレビで放映していて、最後に

「生きねば」

で幕を閉じたのでした。

生きるとする。