【本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました】
最近、ふと、感じたことがある。それがまさに、自分にとって文学はすごく役に立ってるなぁ、ということ。長岡旅行に備えて『峠(司馬遼太郎著)』を読んだせいかもしれない。自分の世界とかけ離れた物語を読むと、「自分以外の何か」に対して、なんだか前より"ワカッテル"ような気がする。それは”優しくなれる”にも似ている感覚。その感覚が、なぜだか私と現実社会をつなげてくれて、苦手・嫌・ワケワカラン、と思ってた人間関係やら面倒くさい業務やらを、なんとはなしに、できるようになっている。
平野さんはこのエッセイで、文学は「今の世の中で、正気を保つため」と書いている。そして文学が「役に立つ」ことについて、一方的には語らない。さすがだ。社会の役に立っているのか?機能?経済・時間コストに見合っているのか?…。自分の役に立つかどうかでしか考えていない私にとっては、目から鱗。その広く深いものごとの捉え方、考え方。考えさせられる・考えたくなるような文体。もうこれだけで、この読書体験、やっぱり「私」の役に立ちまくっている。
とりあえず、私目線での役に立つ考えからちょっと離れてみたいと思う。ひとまず「役に立ってない」と主張する側のことを考えてみた。
ふと「夢でメシ🍚が食えるか!」の言葉が思い浮かんだ。これはいつぞやのJAXAはやぶさプロジェクトリーダーの方の講演で言われた言葉だ。私は製造業の収益管理部門で働いている。この言葉が出た講演はエンジニア向けに行われていて、「夢がなくては、生きてはけない」的な文脈だったように記憶している。
エンジニアvs収益管理部門(私)。はい、時には言わなきゃいけません。「これ何のに役にたつの(売れるの)?」「コストは(儲かるの)?」。夢じゃご飯たべれませんから。
この時「夢」に対して向ける言葉は、なんだか、文学に向けられる言葉に似ているね。
文学的なものに対して、「役に立ってない」って思ってたりするのは、私自身でもある!!
「文学のよいところはまた、主人公があくまでも個人である、ということです」p25
この作品の中で、このように始まる項【普通に至る個人】を、私はとっても気に入っている。なんだか、そう言って欲しかったんだよ!みたいな感覚自分の中にはある。
本当に、主人公はあくまて個人、ということがいいんだと感じる。個人の物語の世界を、読み手の私(個人)が吸収する。すると、その主人公的なもの・・・ものの見方とか考え方とか、時代を見つめる眼とかが、私のなかにちょっとだけ芽生える。その分きっと、考え方のバリエーションが増えているんだろうな。これが、私が思う「私自身の役に立つ文学」像だ。
「ぎりぎりまでこの人は他人なんだ」という感じを持たせながら、最後は寄り切られる形で、「これはやっぱり人間一般の問題に触れているのかもしれない」と、思う瞬間が来るかどうかということが…
p.27
個人の物語なのに、なぜか「人間の一般の問題」と思う瞬間がくる。その時、自分は自分の物語として物語を吸収するんだろうか。だから、新しい考えの芽でもって世の中を眺めると、なんだか、それまでより、仕事ができるようになっていたりするんだろうか。
そんな体験をしているのは私だけじゃないはず。それは、社会の役にも立っているって言ってもいいんじゃないか?どうだろう。
だけど、ここで役に立っていると主張するのは、あくまで個人で。個人をたくさん、まるっとまとめたのが「社会」のはずなのに、「社会」と主語を大きくした瞬間に、個人にとってはそうだけど、社会にとって「役に立つ」ているかは、なんだろう統計とか経済価値にでも置き換えないかぎり見えないのかも。
「夢で飯が食えるか」の議論も同じ構造じゃないかな。夢で飯が食えるか!と言う時、それは、会社のことや自分も含めた多くの人たち(ステークホルダー)、社会のことを考えながら言っていると思う。
一方で「夢がなくて何のために生きているのか」。これは、「個人」が生きる理由のことを考えている。夢があるからエンジニアは頑張れる。尊い。言ってみたい。
私が言うのは、飯食えませんよ、のほう。でもそういう言葉にめげない人がそういう人がすんごい製品開発したりして、世の中にインパクト与えたりするんだから。
個人が生きていくための夢。個人が生きるための文学。似ている。文学にも、エンジニアが発明によって社会インパクト与えるような役の立ち方もしているんじゃないかな。それが何、とは言えない自分が歯痒いけれど。
この本は、「文学はなんの役に立つのか?」の他にもたくさん興味深い思索が収録されているエッセイ集。私は平野さんのエッセイは、なんだかしらないがやたらと親近感を感じてしまい、どんどよめる。しかし。恥ずかしながら、小説はエッセイとは裏腹の(ように私は感じてしまう)重厚さになかなか手がでない。
・・・だがこのエッセイを通して、『決壊』という作品読者や雑インタビュアーからの「どう生きていいのかわからなくなった」という感想に真摯に向き合っていることを知った。そして、生きるための文学となるべく「本心」という作品に取り組んでいる、と。
そのようにして書かれた「本心」とは、どういう作品なんだろうか。今度こそ手にとってみようかな、読んでみたい。と思いました。