【本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました】
noteにも同じ記事載せてます:https://note.com/oka_ch_/n/na0b723c18a5c
はじめに
コミュニティプラットフォーム「OSIRO」さんの企画で、「コミュニティ献本」という取り組みに参加させてもらいました!
flier book laboをはじめとする読書コミュニティで新刊を読ませてもらうという企画です。
今回は、平野啓一郎さんの『文学は何の役に立つのか?』(岩波書店/7/18発売)。
過去7年間にわたって平野さんが綴ってきた文学論・芸術論をまとめたエッセイ集です。一冊を通じて、さまざまな作家や作品を取り上げながら、多角的に文学の役割が語られています。
文学への視点が行き来する感じがとても面白く、興味深く読ませてもらいました!
そして、この本を手に取ったタイミングは、私にとって本当に絶妙だった。
今、私は文学を必要としている
実は今、私は人生で一番「文学を必要としている」と感じている。
最近、見えるようになった感情が増えた。筆頭は「孤独感」。今までと世界の見え方が変わってしまった。それによる難しさも増え、心理学やビジネス書を読んでみたけれど、心は晴れなかった。
そんなとき、夏目漱石やドフトエフスキー、そして平野啓一郎さんの作品を読み、「あ、もしかしてここなのかもしれない」と思いはじめていた。
そんなタイミングで読んだのが、『文学は何の役に立つのか』。
このタイトル、惹き込まれる問いだ。
読書は好きだけど、過去には文学に苦手意識すらあったような私。
なぜ今、私に文学が必要なのだろう。
小説は“個人から始まる”
小説は“個人から始まる”。
この本の中で平野さんがそう語っている。
「平野さんの小説を読んでいると、非常に思想的だったり社会的な問題が出てきて興味深いんですが、なぜそれを小説という形で書くんですか?論文で書いた方がいいんじゃないですか?」と訊かれたことがあります。論文が面白く書けたらそれもいいのかもしれませんし、ユヴァル・ノア・ハラリみたいな人は面白く論文風のああいう本を書いていますが、やはり小説の良さは、どこまでいっても話が一個人から始まることなんです。
(『文学は何の役に立つのか?』p25)
ーー小説は個人から始まる。
「個人」という言葉に救いを感じた自分がいた。
平野さんの『本心 』を読んだときのことを思い出した。
最愛の母を亡くした主人公が、母のAIアバターを作ろうとする冒頭。
読んでいて、その選択に是非を問う前に「この人は、そうするしかなかったんだ」と自然と思えた。その上で主人公の行く末を見守る自分がいた。
その時に、主人公の行動に"反応しない"自分に安心したし、そうさせてくれるこの作品はすごいと思った。
そうか。
個人という入り口にあるのは、
狭さ、偏り、不完全さ。
そこには、
広さ、普遍、正しさはない。
狭さゆえに私は目を凝らして覗き込み、口を挟まず黙って主人公の行く末を見届けることができるのかもしれない。
ほんとうは、人の話を聴きたい
生成AIが発達して、私は「孤独感」を感じるようになった。
それはAIとの会話そのものというより、人がしている"AI的なコミュニケーション"に気づいてしまったからだと思う。
AIは「受け止める」「相手に合わせたコミュニケーションスタイルをとる」「経験を学習する」「課題解決をする」…..。
“理想的なビジネスパーソン”じゃん。
でも、AIが実現させたこの「理想のコミュニケーション」を実際に経験すると、私は嫌さを感じた。
だって、話、聞いてない。
受け止めてる風の語彙だけ豊かで、実際はすぐにハンドルを握って、まとめて、結論を出してくる。私の話で判断しているんじゃなくて、過去のパターンに当てはめて反応してるだけ。
AIなら、それでいい。そういうものだから。
でも、人間の会話も、案外そうなっている気がする。少なくとも私は、自分自身がそういう思考や会話をしていると自覚している。
「私って聞いてないんだな」と思った。だから人を傷つけてきたのかもな。
でも何よりも、それがわかっていても「反応的コミュニケーション」から脱却できないから、困る。
ほんとうは、ゆっくり人の話を聴きたいのに、やろうと思っても反応スピードの速さがゆるまらない。それに気づくほど心が置いていかれる。
だから、文学を読むとき「黙って聴く」ことができる自分に安心するのかもしれない。
反応しない、結論を出さない。
個人から始まる狭さに、静かに関心を寄せる。
文学を読むという行為は、傾聴に近い。
人によっては、文学によって「傾聴される」感覚に救われることもあるだろう。でも私は、「誰かの話を黙って聴く」という傾聴する感覚に救われた気がする。
穴を、覗き込むように
もちろん、個人の話なら何でも読めるというわけではなくて、「個別性」と「共感」のバランス、美しい文体など、絶妙な設計があるからこそ、没入して読めるのだと思う。
『文学は何の役に立つのか』の中では、そうした作品設計の背景についても丁寧に語られている。「個人の視点」から描きながら、どうすればマスプロダクトとして多くの読み手に届くのか。その問いへの試行錯誤が、平野さんの言葉で静かに、しかし熱く語られている。
小説家は、一人の変人から話を始めたとしても、どこかでーこれは括弧付きですがある「普遍性」や「一般性」に触れる瞬間が訪れるかどうかを考えながら書いています。考えながらというのは、そういう瞬間が来るかどうかということと、もう一つはタイミングが非常に難しいんです。
(『文学は何の役に立つのか?』p26)
この本を読んでいると、平野さんの思考の広さと想いの深さにただただ圧倒される。
ドフトエフスキーや森鴎外への語り、ドナルド・キーンさん、瀬戸内寂聴さん、大江健三郎さんへの弔辞…。
一つ一つがとても面白く、まるでアリの巣のように張り巡らされた文学への想いや思考に引き込まれていく。小さな穴を覗き込むように読み進めるうちに、その奥行きと広がりに驚かされる。
一方で、平野さんは「語り合う」機会があることも、文学の持つ大切な機能だと言う。
文学には、読んでいる時の他者への共感と、読み終わった後、読み終わった人同士が文学を介することによってより自由に、或いはより寛大に共感し合うという効果があります。
(『文学は何の役に立つのか?』p29)
私はまだ、文学作品をそんなに読んできたわけではない。むしろ、これから読み始めるんだろうなという感覚をつかんだところだ。
この本の中に出てくる文学作品も、ほとんど読んでいない。
今は一方向な読書かもしれないけれど、いつか私も読んで、語り合いに加わってみたいと思う。覗き込んだ穴の奥に見つけたものを語るように。