【本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました】
文学が、私を救ってくれた時が確かにあった。
中学2年生の新学期。スタートダッシュに致命的に出遅れた。小学校や部活の知り合いがたまたまおらず、友だちを作ることができなかった。今思えば、軌道修正の機会はいくらでもあったはずだ。しかし、当時の私は、自尊心が大きすぎた。
自分など必要としてくれるクラスメートはいない──そう思うことで、傷つかずにすむようにしていた。けれど、その思い込みが、結果的に惨憺たる一年を招いた。
最も恐れていたのは、授業中に二人組を作る場面だった。毎回、誰とも組めず一人になり、周囲の視線を必要以上に意識していた。休み時間も、話す相手はいない。そんな日々の中で、いつしか「一人でも平気だ」と偽装するように、本を読むことが習慣になっていった。
吉川英治『宮本武蔵』、ヘルマン・ヘッセ『郷愁(ペーター・カーメンチント)』……。
文学がなかったら、きっとあの時間を乗り越えることはできなかったと思う。
あの頃、胸に抱えていた本は、私を守る盾であり、他者を強く求める証であり、そして、他者との橋だった。
物語の中に入り込み、登場人物と会話し、ともに旅することで、自分と他者の存在を確かめていた。
きっといつか、誰かとつながれると信じていたのだ。
それで、私は「今ここ」の場所から解放されて、しかも開放されるだけじゃなくて、別のネットワークに接続されていく感じを持ったんです。
自分がもっと心地よくなれる場所が確かに存在していて、しかもそれはノーベル文学賞など、高く評価される人たちがいる場所なのだ、と。
──『文学は何の役に立つのか?』P23
私は、孤独だった。けれど、文学のおかげで、孤立してはいなかった。
あの頃の私は、まさに「生きるために文学を読んでいた」のだと思う。
大人になった今、私はエッセイや詩を書くようになった。
そして書くときに、必要なのはいつも「孤独」と「沈黙」だ。
「この苦しみや悩みは、自分だけのものではないか」
「誰も、私の声など必要としていないのではないか」
そんな問いに答えるように、私は言葉を探している。
それは、心の奥に沈んだ感情や経験が、ほんの一言によって誰かとつながる瞬間を信じているからだ。
言葉を書くという行為は、自分の孤独をただ抱えるだけでなく、
その孤独を他者と分かち合うための形を与えることでもある。
それは、個人的なものとして孤立して放っておかれるべきものではなくて、
言葉によって美的に共有されるべきものなんだ。
──『文学は何の役に立つのか?』P25
この一文に、私は深くうなずく。
書くこともまた、かつて読書がそうであったように、孤独を橋に変える営みなのだと、今では思っている。
本書は、タイトルにもなっている講演録「文学は何の役に立つのか?」に始まり、文学の美、過去との対話、表現と言葉の責任をテーマにしたエッセイ、さらにドナルド・キーン、瀬戸内寂聴、大江健三郎への弔辞を含む特別付録まで、多様な形式で「文学の意義」を問いかける一冊だ。
現代を代表する小説家である平野啓一郎氏の論考と、過去の優れた文学者の言葉に触れることで、読者は「私たちの人生が文学にいかなるテーマを提供するのか」を、深く考えさせられることになる。そんな、静かで濃密な読書体験がここにはある。
私にとって、大江健三郎は特別な作家である。
けれど、いまだ彼の作品と真正面から向き合えてはいない。
それでも、彼の言葉に救われる日のために、私はいま、この孤独を噛みしめている。
中学生のときだけではない。
今もなお、私は文学に救われ続けている。