小学校、中学校、高校、大学・・・、大学院は行ったかどうか知りませんが、あなたにとって尊敬できる師、先生とは、どのように出逢われましたか?もしくは、そのような先生は、いませんでしたか?

僕は、Yesです。何人かいました。

でも、それは「日本の学校教育(制度)」という枠組みの中での先生であり、学校を卒業してからの方が圧倒的に長い、「社会人としての人生」を走り抜ける上で支えになる存在たりえたか?というとググッと減ります。

言い換えると、学校で良い成績を取る、少しでも良い学校に進学するという意味では、大変多くの先生方にお世話になった。

しかし上記の「良い学校」というのが少し曲者である。

日本の学校は、まず偏差値という物差しで序列化されていて、値が高いほど良い学校とされる。確かに、文科省そのほか公的な助成も、いわゆる試験が難しい大学に多く充てられていることが多い。

それはすなわち、己の誘惑を断ち切り受験勉強に打ち克つ、勝つことができたという「努力」とそこで身につけた「能力」が評価され、実際の研究面や論文においても同様なのだということが推察できる。

でも、「正解を出すこと」で終わっている、ということにハッとさせられた。これは、ついこないだの話である。もう気づいている人は、何を今更、と苦笑されるかもしれない。

先日のブログにも上げたけど、
日本の教育に欠けていると思われるもの 

「why」,「 what」で終わるのが学校の試験で、
「How」は、そこまで要求されない。生徒、学生それぞれが、考えて動く(動作する)ことまで突き抜けるか、動詞で終わるかは各人の自由(というか、そこまで突っ込まれることはほぼない)。
答えを書いて、マルもらえたら嬉しい。知識を得ること、正しい答えを導き出すということ自体はもちろん大事。ただその先が、僕の学生生活でほぼ見事に抜けていることに愕然とした。

答えがないとか、個々で考えがバラバラということは、人が2人以上集まる組織体では日常茶飯事だろう(企業、団体、家庭など)。そこで一番大事なのは「How」なのに。

多くの日本企業では4月に新卒社員たちが入社して、数ヶ月するとちらほら聞こえてくるのが彼らの「指示待ち」に困るという上司や先輩、新人のいないところでこぼされる愚痴である。

毎年新人と相対してきた方はそんなのあたり前田のクラッカーだとお思いだろうが、実はその風景は若手が「新人類」と呼ばれようが、「ゆとり世代」、「Z世代」だろうが数十年変わっていない。
僕が新卒の時からも延々と続いている。育ってきた環境や時代背景のせいでなく、答えを書いて終わりという教育制度、受験ピラミッドにも原因があるのではないか。
だから、景気不景気の繰り返し、web2.0が3.0に変わろうが、少子化が進もうが、大学全入化に近づこうが、花粉症のように繰り返しそれはこの国に訪れる。

随分と標題から話が逸れてきて恐縮だが、良い師とは、

「学んだことを、君のこれからにどう活かすの?」

ということを聞いてくれる、あるいは示唆してくれる先生がかなり大きなウェイトとして、その中に含まれるのかな、と言いたかったのです。だからこのブログをお読みの中でそういう出会いがあった方は超ラッキーです。

もちろん、話が面白いとか、学生のいいところを引き出すとか、粘り強く指導してくださるとか、イケメンとか?その他の要素はたくさんありますけど。
本日もお付き合いいただきありがとうございました。
アニメ「ハクション大魔王」でも、「それからそれからどったの?」って言うてくる「それからおじさん」っていますよね。あれも良い師かw?

※「動作」と「動詞」の違い(「早く読めて、忘れない、思考力が深まる『紙1枚!』読書法」/浅田すぐる著)より
動詞=行動に移せない表現    例)「お客様目線で考える」
動作=行動に移せる表現    例)「お客様が現場で感じていることを、書き出してみる」